「うわー、もう8時になっちゃう!」

 時は4月はじめ。過ごしやすい陽気、明日から仕事かという少し憂鬱な雰囲気も漂う日曜の夜。ごくごく普通の住宅街に建つ一軒家の玄関に、1人の女性がばたばたと入ってきた。

「麗子ちゃん、お帰り〜」

「うわ〜ん、テレビはじまっちゃう!」

 麗子と呼ばれた女性は、リビングルームからひょこっと現れた女性にただいまと忙しそうに言うと、そのままばたばたと階段をのぼり、自室へと戻って行った。

「ぎりぎり〜」

 麗子は薄暗い部屋の中。部屋は女の子らしく淡い桃色と木製の家具で統一されており、ぬいぐるみなんかも多い。その中にある液晶テレビをまだ部屋の電気もつけない時点で大急ぎでつける。テレビの画面の中ではお笑いのバラエティ番組がはじまったところだった。

――どーもー、若山と粕谷、2人合わせてワカスでーす。名前だけでもね、覚えて帰って下さいね〜。

「若山さんだ!」

 麗子はリモコンを置いて、ピンク色の少しもこもこした素材の座布団に体育座りで座ると、両肘を膝の上につき、その手の上に顎をのせて、うっとりとした表情でテレビを見つめた。

――貴方は腹黒でしょうが!

――大正解だよ! って腹黒って公表させるんじゃねぇよっ!

 テレビの中では黒いスーツを着た中肉中背の顔立ちの幼い男性と、平均より背はありそうなオールバックの髪の蛍光色の服が目立つ男性がどつき合っていた。そのテンポの良さに会場からの笑い声がお茶の間に届いている。

「……やっぱり若山さんが一番面白い」

 麗子は思いっきり笑いながらも頬を淡く桃色の染めながら画面を食い入るように見つめていた。

 

 

 4月はじめは、風が心地よい季節、晴れ晴れとした空には雲も見当たらない。学校、会社、ひいては生活。日本では様々なことがはじまる季節でもあり、この東京の中心部は賑わっている。

「箏曲研究会でーす! よろしくお願いしまーす!」

 演劇部をさしおいての声量で1人の特に目立った特徴のない……いや、声には妙に特徴のある女性が前を通る人々に呼びかけていた。

 チラシを手に持ちながら前に差し出し、頭をさげていたその女性が肩にかかるほどのサラサラした黒髪を揺らして頭をあげる。顔はさして美しくもなく愛らしくもない。かといって醜いということは一切ない。身長も平均より少し高いぐらい。見た目には特徴は無いのだが、やたらにハリのある、遠くまで通り抜ける声量が簡単に出、なおかつ妙に可愛らしい声をしている……それが麗子、池上麗子という女性だった。

「せんぱーい、もう部屋で休んで下さい、ここは私がやりますんで」

 女性の後ろから化粧のせいもあって華やかな顔立ちをした茶髪でウェーブのかかった髪を揺らした、しかし派手ではない女性が声をかけてくる。現れた女性はチラシを奪い取るように自分の手にすると、ぐいぐいと麗子を引っ張った。

4年生にいつまでもやらせるわけにはいかないですよ〜、ほんと休んでて下さい」

「そう、手伝える内容ならなんでもやるつもりだから。人手もないうちのことだし……でもちょうど疲れたところだし、練習室に戻ることにするわ」

 麗子はそう言うと、人ゴミから抜け出し、近くに建っている5階建ての建物に向かって歩き出した。

 

 ここは山洋学院大学。都内でも名前の知られているマンモス大学である。有名で名門でもあるが中堅大学である。高校まで真面目に勉強すれば入れるのではないか、それがこの学校の認識である。麗子は、この大学の4年生にこの4月になったところである。4月、新入生が入る時期。今はサークル勧誘に打ち込むのがサークル所属員の義務にも近い時期なのである。

 麗子の所属しているサークルは箏曲研究会という和楽器の箏(琴ともいう)を演奏するサークルである。マンモス大学にも関わらず女子のみの10人いるかいないかという少人数で構成されている。一昨年は新入部員0、去年は新2年生も含めた4人が入部したが今年も3人は入れないと運営に支障が出る。小規模サークルとしては存続の危機もかける新入生歓迎時期であった。

「お疲れ様〜……っていないかぁ」

 麗子はドアを開けて箏が2面ほど並べられている狭いという印象の部屋に入る。床は絨毯で壁は白、窓はなしの殺風景な部屋である。練習室という防音のきいた部屋なのである、こういった広さの違う部屋がこの大学には12部屋ほどある。狭い部屋だが弱小の箏曲がとれただけマシ、麗子はそんなことを考えながら深く溜息をついてパイプ椅子に腰かけた。

「ほんとは今の2年生がもうちょっと仕事してくれないと困るんだけどね……たまたま私も今日夜までバイトが入ってなかったから手伝えるけど……バイト……ねぇ」

 麗子は壁に向かってか、床に向かってか独り言を呟く。呟く麗子の横顔には疲労の色が表れていた。何故なら彼女には2つの生活があったからだ。1つは今のようにごくごく普通の、ただし忙しさもある大学生生活。もう1つが……。

 

 

「今日の見学の子も入るといいよね! じゃあ、私はバイトがあるから!」

「本当にお疲れ様です、先輩! また明日!」

「じゃあね、れいちゃん」

 麗子は練習室を出ると駆け出した。

「うわーん、なんだかんだいってぎりぎりのスケジューリングだよぉ!」

 半泣きの表情で門から駅まで走りぬける。辺りはもう暗い。地下鉄の駅で電車に危ないが飛び乗ると、胸をおさえて、麗子はひといきついた。

「さてと、お仕事モードだな」

 

 

「おはようございまーす、池上麗子、到着しましたぁ!」

 麗子はそう高らかと叫ぶように言いながらドアを開けた。部屋の中は暗い印象。壁も黒く、電気もついているが部屋の半分ぐらいまでの話である。マイクが何本もたっているのがこの部屋の特徴といえる。

「れいちゃん、おはよー」

 背の高い麗子と同じぐらいの肩あたりの茶色い髪を揺らした女性から、低い声での挨拶が返ってくる。

「今日もがんばろうね」

 挨拶を返した女性の背後からひょっこりと小柄で細身の男性が顔を出す。

「瑞樹さん、上条さん、今日もよろしくお願いします!」

 麗子は深々と頭をさげるとカバンから少しくしゃっとなったB5サイズの本を取り出し、マイクの近くに歩み寄った。

「……あれ? 私最後じゃないんですか?」

「小野田くんが遅刻だって」

「またかよ〜、なんか走って損した気分だぜ、小野田〜」

 瑞樹の発言に麗子は左手で顔面を覆い、そう言った。

 10分ほど経過した。

「遅れてしまってすみまそ〜ん、小野田でっす!」

 甘い性質の声がドアの開く音と共に部屋に届く。

「小野田ぁ〜、何回遅刻すんだ馬鹿―!」

 入ってきた背もなかなかある男性に麗子が飛びかかった。相変わらず愛らしいが恨みのこもった声であった。

 

 

「ふぅ〜、ん?」

 部屋の外の長椅子に腰かけて、麗子が溜め息をつく。目の前に紙コップが差し出され、麗子は視線を上へとずらした。

「れいちゃん、疲れてるね、大丈夫?」

「瑞樹さん……ありがとうございます」

 あたたかいコーヒーを瑞樹から受け取り、麗子は笑顔を浮かべてみせた。瑞樹が隣に腰掛け、コーヒーを含む。

「今学校が忙しいんで。ちょっと疲れたかな〜ってだけですよ」

「この仕事、規則正しくって生活送りづらいし、思ってるより大変だからねぇ」

「でも、楽しいんでいいんです! それに就職活動している子に比べたら精神的には私は追い込まれてませんし!」

「そう? れいちゃん無理するタイプだから心配。ほんと、何かあったら私とかに言ってよ? 先輩なんだから」

 麗子と瑞樹はお互いに笑顔を浮かべる。瑞樹、加賀瑞樹は麗子の先輩である。そして彼女たちの職業はというと、声優である。瑞樹はアニメーション関係の専門学校を優秀な成績で卒業し、そのまま声優界にデビューした実力派でもある。低く、女性にしては男前な声は美少年役から青年、大人の女性役まで幅広く演じている。本人も男前な外見の持ち主で、宝塚男役風の美人といえる。今は30代のそれなりのキャリアを積んだ女性声優だが、麗子がデビューした時は若手中の若手、その時から容姿は変わらない。瑞樹は麗子が業界に入った時からの憧れの先輩である。

「今日は仕事これで終わり?」

「はい! ラジオは明日なんで、今日はこの収録だけです。瑞樹さんは?」

「この後はラジオCDPRがあるよ。楽しい現場だから大変じゃないけどね」

 麗子はお疲れ様ですと言うとコーヒーを啜った。その表情は憧れの瑞樹といても少し寂しそうに見えるものだった。

 

 

「お疲れ様でした〜」

 麗子は夜の11時という時間を壁掛けの時計で確認すると深々と頭を下げ、部屋を後にした。

「れーいちゃーん」

「小野田くん、遅刻多すぎだよ、気をつけないと」

「ごめんごめん」

 小野田は少しも悪びれていないといった笑顔を浮かべながら頭を掻いた。

「反省してないでしょ?」

「まぁ常習犯だからね。でも悪いなとは思ってるんだよ、本当に。迷惑かけてるわけだし」

 小野田は麗子の前に出て、頭を下げる。

「もう……」

 麗子は腕を組んでため息をつく。麗子と小野田は年の差があるが、中学生のころにデビューした麗子とは同期である。その為、麗子も同い年の友人のように話すのが小野田である。現にラジオなどでユニットも組んでおり、2人は仲が良い。ただ、気まじめな麗子と砕けた性格の小野田では性格はわりと違うといえる。小野田は遅刻の常習犯である。しかしその陽気なキャラクターからかなかなか憎めない人間なのである。

「れい、やっぱり浮かない顔してるじゃない。大丈夫? 瑞樹さんも心配してたよ」

「ほんとに疲れただけだって、学校、今新歓の時期じゃない。サークルに人入るかなぁとか心配とかもあってね」

「なんだ……彼氏と会えてないとかかと思った」

 麗子は小野田の言葉を聞くとビクンっと身体を震わせた。

「……と、図星?」

「ち、違うもん! 別に会えないぐらいでテンション下がるほど……」

 子供じゃないもんと続けようとしながらも麗子の声はどんどん聞き取れないぐらい小さくなっていく。

「とにかく平気なんだったら! 小野田くんに心配されるほど落ちぶれてないわよ!」

「酷いいいぐさ、心配してあげてるのに……」

 小野田がむくれてみせる。麗子はまた、ため息をついた。小野田は背もまあまあという言葉がついてはしまうが、長身な方ではあるし、色白の端正な顔立ちで甘い声を持つなかなかの美男子である。だが変人と言われるその破天荒さのせいで彼女いない歴を5年と現在伸ばし続けている。

 一方麗子はというと、地味な顔立ちと真面目すぎる性格もあって彼氏など大学生になるまで一切つくらなかったが、大学2年生の時から今の彼氏と交際中である。ただ、あまりにも多忙の為、なかなか会えなかったりということも多い。

「明日はラジオなんだからね、遅刻しないでよ!」

「はい、わかってます」

 

 

 夜風は冷たいという印象のある中、麗子は最寄駅から外へと出た。都会の地下鉄は11時台もこんでいて、体力を消耗させられる。

「え……?」

 麗子は、信じられないといったものを見たのか素っ頓狂な声をあげた。

「わ、若山……さん?」

 麗子が声をかけると、電信柱に寄りかかっていた青年が声をたよりに顔をあげる。疲労の色も見える顔を安堵の表情に染めると、麗子に駆け寄ってきた。

「れいちゃん!」

「若山さん、どうしてここに?」

「うん? 彼女に会いたいって思うのは普通のことじゃん」

 若山のストレートな言動に麗子が口をぱくぱくと餌を求める金魚のように動かす。

「でも、だったら言って下さったら、ちゃんと会いにいきます! こんなところで待ってて気づかれたらいろいろ騒ぎになっちゃうし、第一風邪でもひいたらどうするんですか! 夜道まちぶせなんて、私が若山さんより先に通ってたらとか、いろいろ弊害……」

 麗子が両手をばたばたと動かしながら若山に反論する。若山はおもしろそうにその様子を伺いながらも麗子の口元に人差し指を持っていき、反論を止めた。

「ここんところ忙しくてなかなか会えなかったし、明日俺もラジオだからもしかしたら局で会えるかなとかいろいろ思ったんだけど、れいちゃんに今会いたいなって思ったしついでに驚いた顔も見たいなって思ってね。それでの行動」

「うーうー、でも周りの人に気づかれなかったですかー?」

「大丈夫、俺ってばスーツ脱いじゃうと誰かわからなくなるみたいだから」

 若山は苦笑気味にそう言った。麗子と交際している若山は、麗子も一ファンである超人気お笑い芸人コンビ、ワカスのつっこみを担っている若山昌真である。麗子はそれなりに仕事を持っているファンもついている声優ではあるが、地味な外見にコンプレックスを持っておりメディアには一切顔を明かしていない。芸能界に身を置く者同士といっても、2人は交わらない点のようなものだった。それが交際するになるまでには、運命的な出会いというものがあったのだった。

「れいちゃん、ご飯食べれた?」

「いえ、学校終わって現場に直行だったので……」

「じゃあ思い出のファミレスに食べに行こうよ。もう俺も朝まで仕事はないし」

「……はい!」

 麗子は若山に気を遣わせているんじゃないか、やはり人目を気にしないといけないのではないか……いろいろ考えたが、若山と会えたのが嬉しい。ゆっくり話したいという欲求ももちろんある。それを認めて素直に笑顔で頷いたのだった。

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